Atelier Grace
Mitsue Kaneda’s lace doll

mode
服装の流行

レースドール制作で、モードの流れを知ることは大切なことです。
その歴史を少し取り上げてみました。画像と一緒にお楽しみください。

スペインスタイル

スペイン スタイル

1588年のドレスです。
スペイン・モードの流れからボディーにはバスキーヌとよばれる、芯をいれたりして身体をきつく締めつける胴衣(上着)を着用しました。
スカートの円錐形のためには、フランス式ベルチュウガダン(輪をドラム形にしたフィール・ファージゲール、籐や鯨髭、銅鉄線の輪を段々に縫い付けたアンダースカート)をドレスの下に着用しました。

スペインスタイル

スカートをふくらませるということは、衣服に用いる生地の豪華さや、オーバースカートの前をひろげてアンダースカートを見せ、着装美の立体化を図るなどの新しい技巧をもたらしました。
胴の細さも強調する役割もはたしました。

コル・ピケという新型のコルセットが現れ、これにともなってストマッカーという胸当てが使用されはじめました。
この頃のヨーロッパの支配階級の婦人たちは、昔の中国の婦人たちが纏足をしたように、幼児からコルセットでウエストを細くして育てられたのではないかと想像します。
胴部は一様にV字型にこしらえており、胴が細いことを誇張してそこに富裕階級の着装美観が集中しました。

袖は二重につけられており、外側の袖は床に達する垂れ袖、この時代の男性服に対応する婦人服として均整の取れたものです。
内側の袖は、本来シープ・スリーブ(羊足型)、カフスのレース飾りはこの頃から見られレースは非常に高価なものでした。
カラーはデコルテにそって、後頭部を覆うように取り付けられている、いわゆるエリザベス・カラーです。

ローブ・ア・ラ・フランセーズ

ローブ・ア・ラ・フランセーズ

1750年頃から正式にフランス宮廷衣装になりフランス革命まで続きました。
フランスで元来は、「コントゥーシュ」「ローブ・バタン」と呼ばれていました。

ローブ・ア・ラ・フランセーズ

肩からゆったり落ちる長い布地でできたドレスは、初期のドレスメーカーが作ったものだといわれます。
背中にプリーツを丁寧にたたんだサック型ドレスへと発展しました。
プリーツは1730年頃に肩先から肩先までのかなり広めだったが、その後は徐々に狭くなり1780年代末には背中央に5~8cmの幅になりました。

ロココの女性服は背中にプリーツの入ったゆったりとした前開きのローブ、ジュー(ペチコート)、胸当て(ピエス・デストマ、ストマッカー)の構成を基本に装飾小物としてレース、リボン、タッセル、造花、宝飾品などがあげられます。

中でもレースはロココ時代には最も重要な物の一つです。
アンガージャント(袖口のレース)、ラッペト(髪の垂れ飾り)など繊細でデザインの凝ったレースは非常に高価で、特にブリュセル・レースは貴婦人たちのあこがれの的でした。
上質な甘麻糸で作られたベルギー産のレースはフランスで大変人気がありフランス国内のレース産業の衰退を招いたともいわれました。
こうした服飾は次第に宮廷の儀式、舞踏会などに限られるようになりました。
ネックリボンは1775年頃までの流行の特徴で、布かレースで作られたリボンを首に巻き、宝石のボタンやペンダントを付け替えて楽しんだり、タッセルを下げてボウを結びました。
深いネックライン、コルセットで締めつけたボディラインは宝飾品を陳列する絶好の見せ場でした。
この胸元を飾るストマッカー・ブローチは18世紀独特の宝飾品でした。
つなげるとネックレスにもなる対のブレスレットを付ける習慣は19世紀半まで続きました。

こうした服飾は次第に宮廷の儀式、舞踏会などに限られるようになりました。
ネックリボンは1775年頃までの流行の特徴で、布かレースで作られたリボンを首に巻き、宝石のボタンやペンダントを付け替えて楽しんだり、タッセルを下げてボウを結びました。

深いネックライン、コルセットで締めつけたボディラインは宝飾品を陳列する絶好の見せ場でした。
この胸元を飾るストマッカー・ブローチは18世紀独特の宝飾品でした。
つなげるとネックレスにもなる対のブレスレットを付ける習慣は19世紀半まで続きました。

ローブ・ア・ラ・ポロネーゼ

ローブ・ア・ラ・ポロネーゼ

ロココの服飾は次第に宮廷の儀式、舞踏会などにかぎられました。
日常にはローブを腰丈で切ったようなカラコ等(もともとイギリスから伝わったもので、田園スタイルの一つ)ジャケットとペチコートの組み合わせが着られました。

ローブ・ア・ラ・ポロネーゼ

1750年頃から広がっていいた庭園の散歩というイギリス流の新しい習慣のために、ペチコート丈は短くなりました。
オーバースカートが三つに分けくくられて、アクセントを後ろにもってきました。

ローブの後ろ裾をポケットから引き上げたり、くくり紐でカーテンのように自由に上げ下げが出来たポロネーズが流行しました。

ローブ・ア・ラ・ラングレーズ

ローブ・ア・ラ・ラングレーズ

1750年後期には、襟ぐりがコルセットの上限の届く位に低いものが流行となり、胸元が大きく開いたためこの部分をゆったりと包むように両肩から胸にかけて着装した三角形の肩掛けフィシュが流行し、1780年代から次第に大型になり、前で交叉させて背面で結ぶ方法が流行しました。1

ローブ・ア・ラ・ラングレーズ

ネックリボンは、以前より細く長くなり、ペンダントの形やサイズもいろいろで、たとえばヒーローや恋人の肖像画をミニアチュールにしました。
サボ型袖口になり、ミット又はレテェキュールという指先のない手袋がおしゃれ用として流行しました。親指だけが分離し、他の四本の指が一つになった形が多く甲は山型のフラップで被われました。

エンパイア第3期 スタイル

エンパイア第3期 スタイル

第2期の延長で、素材が極端に薄手のモスリンからサテン、ビロードに代わりフリルや刺繍の飾りが復活しました。

エンパイア第3期 スタイル

ハイ・ウエスト変わりませんが、スカートはやや裾広がりになり、単純な古代モードのリバイバルから脱して独特なスタイルを形成しています。
当時の新興ブルジョアジーの成り上がり者的な感覚に左右され、ロココやバロックのブルボン王朝をとびこえて16世紀のスペイン・スタイルを土台とするフランス・バロア朝のモードを志向しました。

ハイ・ネックでレースのカラーを何枚も重ねた16世紀風がうかがえます。
肩のところでパフにした長袖も流行しました。

パフ・スリーブは以前より大きくなりウエストは下がり、20世紀後半より登場する新しいロマン主義スタイルを暗示しています。

X字型ロマンスタイル

X字型ロマンスタイル

シルエット基本はクラシック・スタイルのコルセットを追放してウエストラインを解放したものから、ふたたびコルセットによってウエストを細め、スカートの裾をペチコートを重ねて大きくひろげ、袖を極端に大きくすることによってX字型に変わりました。

X字型ロマンスタイル

1830年の古典的な X字型・ロマン・スタイルです。
袖はシープスリーブ(羊の脚型袖)流行しましたが、その袖がデフォルメされてベレー帽のような誇張された形に変化してきました。

袖の上にレースのひだ飾りが3段に重ねられていますが、ジョケイと呼ばれる独特な飾り布で、16世紀後半のショール・カラーのリバイバルと考えられます。

クリノリンスタイル

クリノリンスタイル

スカートを大きくふくらませたクリノリンスタイルは、硬い張りのあるペチコートを何枚も重ねて、丸みのあるシルエットをつくりだしていました。
ペチコートの重さで動きがとれなくなるのを解決するために1850年頃から、馬毛を交織した麻地とフープ(輪)でつくられた新型のペチコートを着用したスタイルです。

クリノリンスタイル

鯨骨や、針金仕様のクリノリンペチコートが考案されてスカートはつり鐘型から裾広がりのドーム型シルエットに変わりました。
1865年頃にはその大きさがピークに達し、裾まわりが4~5mとも7~8mともあったといわれます。

絹織物の布幅が70cm程度であったことを考慮して何十メートルも絹地を使用して作る大きなスカートのおかげで衰退していたリヨンの絹織物産業が大きく復活しました。

1845年に、ミシンが発明され、それを改良した足踏み式ミシンをイサク・メリット・シンガーが1851年に発明しました。
ミシンの普及と相まって布地も沢山使い、縫いあげることが可能になりスカートの大型化が促進されました。

スペイン貴族の娘、ユージェニーがナポレオン3世と結婚したことも影響してフランスでは、スペイン風のレースショールや大きなスペイン櫛が流行しました。

ユージェニーは、マリー・アントワネット以来の貴族のモードリーダーとして「クリノリンの女王」といわれました。
その頃、オートクチュールの創始者である、イギリスのワースがパリにメゾンを開設しました。
彼は、王室や上流階級に愛顧を受け1860年にユージェニー皇后のデザイナーになって活躍し、新作をマヌカンに着せて発表する方法を考案しました。
髪型は中央分けにし、後ろに髷を作り、やがて両側や後ろに巻き毛を垂らすようになりました。
1860年頃には、つけ髪、つけ編み毛を多様にした髪型があらわれ、徐々にボリュームが増しました。

バッスルスタイル

バッスルスタイル

1860年代末になると、スカートの幅は急激に狭くなって、後方に広がったスカートは腰の後部をふくらませるスタイルに変化し、バッスルという腰当によって作られたスタイルです。
少しずつ変化をしながらリバイバルを繰り返したスタイルで、バッスルには、ひだ付けした麻、馬毛地、針金、竹製枠、鳥かご状などさまざまなものが使用されました。

バッスルスタイル

腰の後部のふくらみは1880年代半ばから末には大きくなりました。
このスタイルは日本の明治期、鹿鳴館時代に導入されました。
スカートを2枚重ね、上にたくしあげたり、前を開けて下のスカートを見せるというものでした。

参考に当時の洋服の値段ですが、素材として絹は西陣や足利の極上品を使うとしても、その他の物は輸入品で作ると400円はかかったと言われ、今の物価に換算すると400万円~200万円と考えられます。

髪型はつけ毛が上部に加えられて大きくなり、ドレスにつり合うように後頭部にポイントのある髪型になって、小型の帽子が流行しました。
1872年に鏝(コテ)によるマーセル・ウェーブが考案せれました。
マーセルが担当した女優の芝居が1884年にヒットして、その髪結師として注目され、マーセル・ウェーブが話題になりました。

それまでのつけ髷やつけ毛を重ねた髪型から、自然にウェーブをつけた髪は人々の目に新鮮にうつり、急速に受け入れられました。
ファションブックの普及とともにパリの最新モードがヨーロッパの各地に広がっていきました。
美しく彩色された版画に人々は目を奪われ、最新モードを取り込んでいきました。

プリンセススタイル

プリンセススタイル

バッスルスタイルが変化をしながらリバイバルを繰り返している時期に1877年から1880年にかけて、一時バッスルスタイルがなくなり、上半身もスカートもタイトになりました。

プリンセススタイル

スカートの上にオーバースカートを巻きつけたり、人魚のようにトレーンを別布でつけてアクセントをつけました。
イギリスのエドワード7世の妃アレクサンドラ(プリンセス・オブ・ウェールズ)が好んだスタイルであったことから、このようなシルエットをプリンセススタイルというようになりました。

なおこのスタイルに限らず、上流社会では季節ごとに最低4種類ずつ必要とした。

(1)午前中に着る
  • モーニングドレス
(2)午後用に着る
  • アフターヌーンドレス
  • ウォーキングドレス
  • プロムナードドレス
  • ビィジティングドレス
  • ガーデンパーティードレス
(3)夕方に着る
  • ティードレス
(4)日暮れから着る
  • イブニングドレス
  • ディナードレス
  • ボールドレス
  • シアタードレス
  • オペラドレス
S字カーブスタイル

S字カーブスタイル

S字スタイルの起源は、医学研究家のガシュ・サロート夫人の発案した新型コルセットでした。
彼女はこれまでの婦人衣装の構造を研究した結果、ウェストや横隔膜を極度に圧迫している事を発見し、1900年に女性の健康に役立つ新しいファンデーションの装身具を発表しました。
医学がモードに直接影響を与えたのは史上初めてのことです。

S字カーブスタイル

「健康コルセット」はヒップ丈のトルソ型で上半身はストレートで胸を解放し、深くウェストの上までのびた形です。
衣装の重心がウェストやヒップからに移されました。
女性たちはクリノリンやバッスルなどの仕掛けの多い衣装に慣れていたので自然に従うことを好みませんでした。
下着メーカーたちは女性心理をキャッチして手を加え、コルセットの乳のあたりにフリルをどっさりつめた鯨骨入りのキャミソールや胴着を売り出しました。 女性たちはさらに丸めたハンカチーフなどを入れて、ますます胸をふくらませました。その結果、前方に突き出た胸の線とタイトなウェストとヒップの大きなふくらみによって、側面から見た女性はまるでアヒルやカンガルーのシルエットになったのです。

流行のベル型のスカートは突き出たヒップの下までフィットし、そこから裾までフレアーが入って花冠形になって通常は地上を引きずり、昼間のものさえトレーンがつき、地上を歩くときはクリップでスカートに留めつけていました。
髪型は1890年代にはつけ髷が小さくなり、頭の形にそった髪型になりました。
特徴はマーセル・ウェーブを主体にした頭頂部に髷をつけた形、ポンパドール風に髪を張り出した形も現れました。
1905年から翌年に電気を使用したパーマネント・ウェーブがチャールズ・ネスラーにより発表されました。

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